静の極み

人間の歴史は常に問題が生まれ、それを解決するという流れだ。

もちろんそれによって新しい知識や発見が生まれ、物事に対して深い洞察が可能になった。

しかし、それは人間の幸福にどれだけ役に立っているのか?

貨幣経済システム、医療、教育、産業・・・、いろいろなものが細分化され、専門家がこれが正しいことだと主張する。

しかし、正しいことを知ったからと言って、幸せなわけではない。

むしろ正しさが次の苦しみを生み出すことさえある。

~を知らなければ、~を獲得しなければ幸せではない、という問題解決に洗脳されていると、終わらない解決ごっこを死ぬまですることになる。

例えば、敵が向こうからやってきて、それを問題解決だと言って、倒すなら、一時的に解決したように見える。

しかし、その敵は次に新しい敵を引き連れてくるかもしれない。問題解決ゲームは、問題を解決すると新しい問題を作り出すというシンプルなゲームの仕組みだ。

だからこのゲームを終わらす方法は、解決することではないのだ。

ではどうしたらよいのか?永遠に終わらないゲームに参加し続けるのが人間の運命なのか?

そうではない。

問題解決とは静動で言うと、「動」だ。常に動き回るという陽(陰陽論)の力だ。

もし問題解決をし続けるなら、常に動しかないため、動が極まるまで動き続けることになる。動が極まると静になる。それは死だ。

これは簡単な陰陽の法則だ。

ゲームから出るには、そのゲームを終わらせるしかない。しかし、実際に肉体の死が必要なわけではない。

それは問題解決を止める(静)ということだ。

問題だと認識する自分をただ見つめるのだ。感情も思考も自分の人格さえも見つめるのだ。

見つめているものは何か?それが「静」となっているものだ。

問題に陽を見つけ、止まってそれを見つめているものに静を見つけたら、陰陽がバランスする。つまり、陰でも陽でもないところが見つかるのだ。そこがゲームの出口だ。

問題解決ゲームは終わらせることができる。しかし、それは何もしない(静)ことだ。そして、受け入れることだ。(受け入れようとする行為も「動」なので、そうではない。何もしないこと(ただ見つめること)が「静」なのだ)

これはとてつもなく難しいことだ。自我は常に動き回りたいし、思考したいし、解決しようとする。それは肉体を持っている以上自然なことだ。

しかし、上記で見たようにそれをやっている以上ゲームは続く。

人間の幸福とは何か?

そのようなものがあるなら、それはゲームの外だ。問題解決は一時的な幸福感を与えてくれる。しかし、一瞬で終わる。

本当に価値のあるものは時間や空間を超える。

ただただ見つめることをしていると、「静」と「動」がバランスしてくる。すると、自分の中の問題解決ゲームが終わる。

自分の中に時間や空間を超えた何かがある。それが見つかるのだ。

それこそ本当に価値あるものではないだろうか?

「静」が極まると自然と「動」が生み出される。この時、問題が解消していく。問題に乗っかって解決するのではない解消の仕方だ。

本当の幸福はここにある。






アイムコーチング

苫米地式コーチング認定コーチである笠原一星が、苫米地式コーチングを提供しているサイトです。コーチングによって新しい自分に生まれ変わるお手伝いを致します。