コーチングBLOG

私たちの周りには物質的、精神的、様々なエネルギー(変化を起こす力)がある。

しかし、それを上手く用いようと思うなら、その運用の仕方を知る必要がある。

思考のエネルギーを上手く使おうとするなら、バラバラではだめだ。

思考とは物質レベルならシナプスを流れる電気信号だ。情報空間に移るなら、そこには思考エネルギー(非物質)があり、流れがある。

物質でも非物質でも、それは情報であり、流れ(運動)がある。

そして、その情報の流れが揃っているのかバラバラなのかが重要だ。

ある時は、Aのことを思い、ある時はそれと正反対のBのことを思う。

自分の中で矛盾したAとBがあるため、力が相殺されてしまう。

頭の中で相殺された力は、自分の外側に何も生み出さない。力がゼロだからだ。

なぜ今の人生が変わらないのか、なぜあの人は上手くいっているのに自分はそうでないのか、・・。

それは自分の中がバラバラで力が相殺されているからだ。

何かを生み出そうとするとき、力が一つの方向に揃っていないといけない。

レーザー光線が強力なのは電磁波の位相が揃っているからだ。つまり、秩序化しているかどうかがパワーがあるのかないのかの違いだ。

自分の頭の中の無意識の考え(これも電磁波だが)が一つの方向に揃って運動しているのかどうか。

もし頭の中の考えが相殺されて力を失っているなら、人生を変えるのは難しい。

自分は一体何をしているのか、頭の中で何を無意識的に思っているのかを知る必要がある。

それがスタート地点だ。少しずつ相殺しているものを外せれば、あなたは人生をコントロールする力を取り戻すことができる。

それは誰かに聞いて何とかなるものではない。自分が人生の主人公として、そろそろその役目を果たすときが来たのではないだろうか。


繋がり(関係性)と言ったものは、頭で考えるよりも先に感じるものだ。

あなたが何かに触れたときに、それはあなたのハートに伝わる。

なぜ人は感動するのか。

そこにはハートが震える何かがあったからだ。

人はハートが震える何かを常に探している。

理由は分からないが、引き付けられるものがあったりする。奥にあるハートが求めているのかもしれない。

良いつながりも悪いつながりも、その奥にはハートによって繋がっている。

そもそもハートは何かの判断をしない。

罪人だからと言って太陽が昇らないということがないように。

ハートはどのような人にも、どのような関係にもある。

ただ、それが見えない、感じない、分からないことが現代の人間にとってあらゆる問題を引き起こす。

偽物の繋がりによって安心を得ようとしたり、認めてもらおうとするのは、本当のハートを見失っているからだ。

ハートを見つけ出す旅は、一人で出発しないといけない。

人生で本当に価値あるものを見つけ出すのだ。

繋がっているということが本当に素晴らしいものだと気づくのはもう少し先かもしれないが、ハートはあなたの還りを今も待っている。

あなたが還ってくるまで待ち続けるのだ。ゴールに到達したとき、あなたは一人ではないのだ。

人間には大きく分けて3つの大事な器官がある。

まずは脳。そして腸。最後に心臓。

どれも重要だが、例えば、腸は食べ物の栄養を吸収する役割があるが、多少食べなくても数日ぐらいは問題ない。

脳は五感という外からの情報を吸収する役割があるが、情報が入ってこなくても生きられるし、むしろ今の時代は情報が入り過ぎる。多少無い方が脳には良いかもしれない。

心臓は肺と繋がり、肺は呼吸によって酸素を吸収する。

酸素がないと数分もすれば窒息する。

そうであるなら心臓や血管といったものは脳や腸よりも優先度が高い。

酸素や栄養が血液によって運ばれないと脳も腸も生きてはいけない。

成長していくためには血管(心臓は一部)は何よりも重要だ。

全てを養い、不要なものは排泄し、いつも働いている。

まるで太陽のようだ。


心臓の鼓動というのは、私たちを裏で支えている宇宙の本質と繋がっているのではないか。

鼓動によって支えられ、そして鼓動を聞くと人は安心する。

本当に人が求めているものは、この鼓動の奥にあるものだ。

それをハートと言うかもしれない。

ハートは宇宙の奥にある神秘と繋がっている。本当の心(ハート)とはそういうものだ。

人は時に心が折れる。もしかしたらその心は本当の心ではないのかもしれない。単なるエゴかもしれない。

宇宙の本質と繋がる(鼓動と繋がる)ハートは、他に何も必要としないし、自由だ。

だから、何かによって傷つくこともないし、そこには深い安心がある。

もし人生で本当に安らぎを得たいなら、モノを増やすのではなく、このハートを見つけることに人生を使う方が有意義かもしれない。

人はこのハート(鼓動)から生まれてきたのだから、それを知っているはずだ。

あまりに人生を誰かのために、社会のために、捧げすぎるとこのハートを見失う。

自分が本当に安心するホーム(故郷、家)を忘れてしまう。全てを許し、受け入れられ、何の判断もされない、のがホームだ。

太陽のようにいつも照らし、養い、見守っているものがホームだ。

鼓動は常にあなたと一緒にある。

頭を働かせる前に、鼓動に耳を傾け、ホームに還る。その鼓動の奥にある安らぎや優しさは、常にあなたを迎え入れてくれる。

生きるための力はそこから生まれてくるのだ。



モノには重さがある。

どんなモノにでも重さがあり、私たちはその中で生きている。

私たちの身体にも重さがあるが、あまりに当たり前過ぎて改めて考えることもなかっただろう。

しかし、あなたのその姿勢、歩き方、動作・・・、それは重さに逆らったものだろうか、それとも重さと共にあるものだろうか?

もし重さに逆らっているなら、なんて効率が悪いだろうか。

重さが味方になる在り方とはどんなものだろうか?

重さは常に地球の中心へと向かっている。重さは常に働いている。

そして、私たちが地球に立っているなら、抗力が発生する。

抗力とは重力に対して拮抗している力だ。重力を反射している。

重力が味方になるには、この抗力を知る必要がある。

私たちは抗力の存在を無視していることが多い。だから重力の意味も分からない。

抗力が分かるようになると、重力を味方につけ、楽な動作(生き方)に変わる。

私たち(人間)ができることはほんの少しだ。人間が重力を発生させているわけでもない。

重力は宇宙、自然の法則に従って、生まれ、そして消えていく。

人間ができることは、その力を少し借りることだ。

抗力というのは自分が重さの力を少し分けてもらったということだ。

だから、抗力は宇宙、自然からの贈り物だ。

その抗力が上手く身体を貫き、体のために使うことができるなら、体は健康になる。そして楽に生きられる。

不要な力を入れることもなく、自分に起こること(問題なども)を解消することができる。

解消するのは、宇宙、自然だ。人間は不要な力を抜き、味わうことだ。

人間の道は、宇宙、自然の道に通じている。人間は宇宙、自然の中に生まれたのだから当たり前だ。

だから、重さは人間の味方になる。

今の生き方は重さ(人生に起こる出来事)に抵抗しているのか、それとも波に乗るように重さを味方につけて生きているだろうか。

あるがままに生きるとは、宇宙、自然の理の中で、それと共に楽々と生きることだ。






人間の歴史は常に問題が生まれ、それを解決するという流れだ。

もちろんそれによって新しい知識や発見が生まれ、物事に対して深い洞察が可能になった。

しかし、それは人間の幸福にどれだけ役に立っているのか?

貨幣経済システム、医療、教育、産業・・・、いろいろなものが細分化され、専門家がこれが正しいことだと主張する。

しかし、正しいことを知ったからと言って、幸せなわけではない。

むしろ正しさが次の苦しみを生み出すことさえある。

~を知らなければ、~を獲得しなければ幸せではない、という問題解決に洗脳されていると、終わらない解決ごっこを死ぬまですることになる。

例えば、敵が向こうからやってきて、それを問題解決だと言って、倒すなら、一時的に解決したように見える。

しかし、その敵は次に新しい敵を引き連れてくるかもしれない。問題解決ゲームは、問題を解決すると新しい問題を作り出すというシンプルなゲームの仕組みだ。

だからこのゲームを終わらす方法は、解決することではないのだ。

ではどうしたらよいのか?永遠に終わらないゲームに参加し続けるのが人間の運命なのか?

そうではない。

問題解決とは静動で言うと、「動」だ。常に動き回るという陽(陰陽論)の力だ。

もし問題解決をし続けるなら、常に動しかないため、動が極まるまで動き続けることになる。動が極まると静になる。それは死だ。

これは簡単な陰陽の法則だ。

ゲームから出るには、そのゲームを終わらせるしかない。しかし、実際に肉体の死が必要なわけではない。

それは問題解決を止める(静)ということだ。

問題だと認識する自分をただ見つめるのだ。感情も思考も自分の人格さえも見つめるのだ。

見つめているものは何か?それが「静」となっているものだ。

問題に陽を見つけ、止まってそれを見つめているものに静を見つけたら、陰陽がバランスする。つまり、陰でも陽でもないところが見つかるのだ。そこがゲームの出口だ。

問題解決ゲームは終わらせることができる。しかし、それは何もしない(静)ことだ。そして、受け入れることだ。(受け入れようとする行為も「動」なので、そうではない。何もしないこと(ただ見つめること)が「静」なのだ)

これはとてつもなく難しいことだ。自我は常に動き回りたいし、思考したいし、解決しようとする。それは肉体を持っている以上自然なことだ。

しかし、上記で見たようにそれをやっている以上ゲームは続く。

人間の幸福とは何か?

そのようなものがあるなら、それはゲームの外だ。問題解決は一時的な幸福感を与えてくれる。しかし、一瞬で終わる。

本当に価値のあるものは時間や空間を超える。

ただただ見つめることをしていると、「静」と「動」がバランスしてくる。すると、自分の中の問題解決ゲームが終わる。

自分の中に時間や空間を超えた何かがある。それが見つかるのだ。

それこそ本当に価値あるものではないだろうか?

「静」が極まると自然と「動」が生み出される。この時、問題が解消していく。問題に乗っかって解決するのではない解消の仕方だ。

本当の幸福はここにある。






コーチは友達ではない。むしろ家族以上に強い味方のことを言う。

コーチは間(ま)を大切にするので、不要な介入はしない。

クライアントが望んでいること(社会一般に許されるものなら)を見守りながら、力添えをする。

なので、コーチはクライアントに一切の否定をしない。

クライアントへ絶え間なく流れる力(エネルギー)は、クライアントが自らを変革することを可能にさせる。

友達はときに嫉妬を起こし、足を引っ張ることがある。自分よりも優れているところを見たとき、その人が変わろうとするのを阻止する。

縄張りを維持したい気持ちが勝手に働くからだ。

表面的にはサポートしてくれているようで、実は裏で足を引っ張ることなどは日常茶飯事に起きている。

特に親からの嫉妬は強力な場合がある。表と裏があることで、人は混乱するのだ。

表で援助し、裏で嫉妬するならそのような(チクハグな)人はコーチではない。

だからコーチは友達、家族以上の存在になるし、絶対的に味方になる。

このようなコーチとの縁は本当に求めていないと結ばれない。

コーチとの縁は一生ものだ。自分の人生に本当の意味で味方になってくれる存在がいることは、強い安定’(安心)感と新しいことに踏み出す勇気を与えてくれるのだ。

どんな時でも「間」というのは大事だ。

話しをするとき、間を間違うと話が分かりにくくなるし、言いたいことが伝わらない。

電車の中でもパーソナルスペースは大事だ。あまりに窮屈なのは苦痛になる。

何事も適切な間というものがあるし、間がズレると違和感を覚える。

少なくとも身体はそれに敏感だ。

頭で考えだすと間が取れなくなることがある。身体では間がとれるのに頭が邪魔をするのだ。

親しい人と会話するときは、間が小さくて済むし、知らない人と会話するなら間を空けて接するかもしれない。間は他者との関係性、今の状況などすべてを考慮したときに適切なものがある。

無限のバリエーションがあるなかで、これだ!という間を見つけることができる。

適切な間というのは答えがいくつもあるようなものではない。実際には1つと言っていい。

しかし、1つだからと言って、無限のバリエーションの間を否定することもない。

適切な1つが分かっていながら、無限の自由度も持っていることが本当に自由なのだ。

社会や教育(実際には科学至上主義と言える)に毒されると、問題を見つけ答えを出そうとする思考パターンが組み込まれる。

それによって評価され、価値は数値化される。

そして比較される「人間」というもので社会ができあがる。

そのような社会に組み込まれたら窮屈で大変だ。社会とも適切な間というものがあることを知る必要がある。

適切な間を知るには、自分の中心に敏感になっている必要がある。

自分の中心とは、「ゼロ」のことだ。しかし、「無」ということではない。

物体の重心は常に点で、それは面積ゼロだ。しかし、このゼロは「無い」わけではなく絶対に「在る」のだ。

ゼロはあらゆる状態を網羅するからゼロなのだ。

例えば、いろんな光が混ざり合うと透明になる。無色だけど光はそこに「在る」。

ゼロとはそういうもので、すべてを含んでいるので、ゼロになる。

モノの重心もまた、モノの全体を掌握しているから重心が決まる。すべてを足すとゼロ(重心の意味)になるのだ。

だから、ゼロになるとは何かを失うことではなく、すべてを統合して掌握できたことを意味する。

ゼロとはそもそも無限を意味するのだ。

ゼロになるからこそ全体になれる。無我になるからこそ大きな自分が目覚める。

だから自分という(人格的、思考的、感情的・・にバラバラな)ものを統合して、1つに統合したならそれはゼロになる。そして、大きな自分(本当の自分)が目覚めるスペースができる。

これは自分の中で適切な間というものを見つけることで起こることだ。

自分と対話するとは、単に自己分析することではなく、自分のあらゆる側面との適切な間をとり、その全体を掌握するポイントを探ることなのだ。

そうやって初めて自分というものが成長できる。

本当の成長とは単に何かを知ったり、記憶したり、知識が増えてできることが増える、ことではない。

それは社会的に必要なことかもしれないが、それだけのために「ここ」に居るのではない。

自分を磨く、魂を磨く、というがそれはまさに自分の中の中心(ゼロであり無限であるもの)に出合うためにすることなのだ。




あまり占いに詳しいわけではないが、占いはその人の情報場を読み取っているものと考えている。

情報場には、過去現在未来という時間をまたぐものがある。

時間というものが収縮し、格納されているところがある。既に未来や過去といったものは情報として存在するのだ。

それは常に今に影響を与え、今の状態を決めているものでもある。

占いとは、その影響を与えている情報を読み解く方法だ。

占いを絶対視してもだめだが、無視してもだめだ。

時に人は占いを信じ、盲目的になることがある。それでは自分の中心を見失っている。

占いで出てくる情報は、自分の中心からのズレを知るために優れたツールと言える。

中心が深まるほど因果を支配している法則から自由になっていくので、より自由な生き方ができるようになる。縛りから自由になるのだ。そうなると占いからも卒業する。

もし占いを活用することがあるなら、自分の中心は見失わず、自分を知ることに活用してもらいたい。

人生で本当にする価値のあることは何だろうか?

その答えを簡単に言うなら自分の中心を見つけ、磨き、表現することだ。

そう考えると人生はとてもシンプルだ。

何か複雑なことしないといけないとか、素晴らしい成果を残さないととか、頑張って努力して注目を浴びたいとか、・・このようなことは自分の中心から出てくるようなものではない。

人生に混乱をもたらし、道に迷い、本来歩むはずだった道に障害をもたらす。

もしこのような価値観が自分の中にあるなら、それは洗脳されている証だ。

親の教育によるものか、学校教育なのか、自分の中の劣等感によるものか、・・・多くの複合的要因によって人は洗脳される。

洗脳とは、自分が中心を見失っている状態だ。

洗脳を解くには自分の中心を見つけ、それをじっくり練ることだ。

単に自分の中心を一回や二回見つけたぐらいでは、人生に影響はあまりない。

人生は積み重ねの賜物だからだ。

時には自分の中心を見失い、外すこともあるが、その戻り方を知っておく必要がある。

※コーチングを受ける前に自分の中心の位置を知り、戻り方を習得しておくのは良いことだ。例えば「AIM意識の覚醒ワーク」はそのための方法を提供している。

何度も中心を外し、そして戻ることをしていると、次第に中心からのズレ(振動しているが)が小さくなってくる。

自分の中心から生きることが標準化してくると、その人は洗脳されにくい。なぜなら、自我が薄まるからだ。

もちろん中心から生きるときのレベル(深さ)というものがあるから、ここでは薄まると表現した。

洗脳されにくいので、自分の言葉というものが出てくる。他者から与えられた情報は鵜呑みにしないが、それを踏まえて自分の頭で考えられるようになる。

自分の言葉が出るようになると、そこに筋の通った話が現れる。

自分を極めていくこととは、自分の中心を見つけ、磨き(外れたら戻り)、表現することだ。

それができれば、自ずと自分のライフワーク(人生を掛けてやりたいこと)が見えてくる。

それは頑張ることでもないが、華やかなものでもない。楽なこともあれば、厳しいこともある。やっている本人は軸がぶれることがないので、淡々とこなすことになる。

重要なことは、自分はそれをやることが腑に落ちて(宇宙で最も)価値のあることだと心の底から思えることなのだ。他人の評価などどうでもいいのだ。

だが、本当にこれを極めていくなら、本当の意味で他人の利益になってくる。

それは自分の中心に行けば行くほど、自我が薄くなり、小さな自分(個人)という意識が消えていく。そして全体(大きな自分であり無我であるもの)を自分とするにようなるからだ。

人助けといったものは、自分の中心が極まったときに自ずとできるようになるのだ。

だからそんなことを最初から自分の中心に置いてはだめだ。

まずは自分の中心を知り、何度も外れるが戻りながら深め、少しずつ表現していくのだ。

そのようなことをやっていると必ずそれを認めてくれる人が出てくる。

その時、人生は一人で歩んでいるのではないことに気づくのだ。



自分の中心に意識を合わせると、やってくるものがある。

ヴィジョンだったり、意図だったり、さまざまだ。

自分の中からは何もやって来ないときも、いつの間にか必要な人と出会って、必要なことを受け取っていることがある。また与えることもある。

自分が何でもできないとと思っているなら、それは大きな勘違いだ。

私たちは大きな世界(宇宙、地球)の中に生かされている。呼吸だって空気があるおかげでできている。

この繋がりを直観的に、そして体感的に感じることが重要だ。

それには頭の思考を静かにしないといけない。

自分の中心からやってくるものは、頭にやってくるものではないからだ。

むしろ頭ではないところから来るものが本当だったりする。

頭は、そのやってきたものについて考えるためにある。

そうでなければ頭は記憶から引っ張り出して考え出す。それはいつも過去の話だ。

未来を描き、作り出そうとするなら、過去は一旦置いておこう。

今自分の中心からやってくるものに意識を向けていれば、今必要なものしか来ない。それでいいのだ。

先回りして作戦を練っておくことも時には大事な時もあるが、未来を過去の延長と見ずに真っさらにしておくこともまた大事なのだ。

自分の中心からくるものはいつでも自分にとって最善だし、常に自分の味方になってくれるものだ。

だからあなたは一人ではない。

常に助けはやってくるということを知っておいて欲しい。

最善とは何かすることでもあり、時には何もしないことでもある。

あなたはそのための羅針盤を常に持っているのだ。


本当の脱力には芯が必要だ。

体から力を抜くとき、単に表面的な筋肉を緩めるだけでは本当の緩みにはならない。

力を抜いているようで無意識に力が入っているところがあったりする。

そんなところは押してみるといい。

こそばゆい感じがしたり、痛みがあったりする。

筋肉は本来ふかふかだから、緩んでいるなら押しても痛くない。

固くなって硬直した筋肉は癒着をしている。

癒着をしているところを剥がしていくと、芯が現れてくる。

筋肉に対する骨だったりするが、芯ができてくると不要な力を入れなくて済むようになる。

不要な力を入れなくて済むので、外の情報を受け取りやすくなる。

不要な力が入っていると、それがノイズのように情報をかく乱してしまう。だから普段の生活でも不要な力みが入っていると、ノイズだらけで頭が混乱してしまい、本当に必要な情報をキャッチできないでいる。

力の抜き方が分かってくると、自分の中の芯が立ち上がってくる。筋肉の力ではない力(見えない力)が自分を支えていることが分かる。

地球や宇宙といったものが自分の身近に感じるようになる。

脱力するとは、腑抜けになることではなく、自分を支えている大きな力の存在に気づき、それを活用することなのだ。

立ったり、歩いたり、座ったりする、日常の動作にこそこの芯が必要で、ちょっとした所作に芯が通るかどうかで見えない力がそれに宿るかが決まる。

地球と、宇宙とコラボレーションして生きるには、まずは脱力することが必要なのだ。



私たちには中心がある。

体には重さがあるので、必ず重心というものがある。

そこは一点で支えることができる点なのだが、点なので本来は大きさなどない。

面には大きさがあるが、点にはないのだ。でもそこには確かに何かがある。その何かを表現などできない。「在る」としか言えないものなのだ。

この何かが「在る」ということを身体をもって理解していくことが人生でやるべきことと言える。

単に重さの話ではなく、思考や感情といった目に見えないものにも当てはまる。そして人間関係においてもそれはある。

中心はとても捉えずらいものだが、そこに行って初めて理解できることがある。


自分の中心に繋がることは何よりも大事だ。

何かを考えるにしろ、何かをするにしろ、自分の中心を捉えられないなら、物事の本質は掴めない。

他者の気持ちを理解する前に、自分の中心を捉える必要がある。

自分の中心は、自分であって自分ではない。そう、「在る」としか言えないものだ。

その「在る」ものを身体を通して、思考を介して理解していく。

この世界に存在するあらゆる物事は、この「在る」ものを理解するために存在している。

「在る」ものは、「空」と言っていいものだし、「神」とも言える。

それは形のないものだが、それを理解して生きるのと、無視して生きるのとでは人生が全く異なるものになる。


人間の幸福とは何か、豊かさとは何か、それらは自分にしか答えを出すことはできない。他人から教えられたものは大したものではない。

自分の中心から来る幸福や豊かさといったものこそ本当に望んでいることではないだろうか。

そのためには自分が中心からどれだけズレているかを自覚する必要がある。

ズレがあるほど苦しさや痛みを感じる。人間の苦しみとはどのようなカテゴリーでも、このズレから来るものなのだ。

「ありのままに生きる」とは、このズレを修正していきながら、中心を捉えた自分で生きることなのだ。